興福寺
京都に来てから
初めて奈良へ遠征о(ж>▽<)y ☆!
669年に創建した山科寺が始まり。
平城遷都にあたり、鎌足の子、藤原不比等が
現在地に移し、興福寺としました。
藤原北家と関わりが深く、
手厚く保護されたために勢力を増大させ、
現在、大河にちなんで
平安時代を勉強中なのですが
度々、出てくる「興福寺」。
平安時代末期、兵力をもって政治介入する
強訴がひんぱんに起こっていたため、
時の権力者たちは「お寺さん」の動きを
慎重に監視(?)していたようです。
京都でお寺さんを敵にしたら身が危うい、と。
まあ、現在の京都でもそうなのかも?
と思うこともあったりして…。
お寺さんに行くと、
「お金もったはるな〜」と思うところもあったり、
「ここは大丈夫かいな?」と思うところあったり…。
力の差(今では)を感じることもしかり…
まあ、がチラつくより、
少しくらい寂れた雰囲気のほうが
お寺らしくていいかなーと思ったりしますがσ(^_^;)
たびたび火災にあった興福寺ですが
2つの火事が大きく変えたようです。
ひとつが治承4年(1180)平重衡の南都焼討。
もうひとつが享保2年(1717)の大規模火災。
「悪の枢軸」のようで…
歴史的にもそうなっていますが…
焼き討ちの指示をしたのは清盛ですがね( ̄_ ̄ i)
国宝館などの説明書を読んでいると
平重衡への憎悪がひしひしと感じられます。
書いている訳じゃありませんが…
そのくせ、強訴については全くふれられてなく…
歴史ってそんなものなのかしら…(-。−;)
一方向からの勉強じゃ、
偏った考え方になりそうだなー。。。
ちなみに、南都焼討ちのあとはすぐに復興され、
現在、残っている建物はすべてこの火災の後だそう。
仏像類も、鎌倉復興期のものが多い。
享保の火災のあとは大規模な復興がされず、
この時焼けた西金堂、講堂、南大門は再建されていない。
江戸時代の奈良は廃れてしまってたのか…(°д°;)
また、明治時代の廃仏毀釈によって
境内は奈良公園の一部になってしまったりした。
一時は廃寺同然となり、五重塔も売りに出されたとか!(´Д`;)
さて、東金堂や国宝館にはたくさんの仏像があります。
特に国宝館の阿修羅像はお顔がいいと話題になりましたが
旧山田寺仏頭も、いいお顔してらっしゃいます♪
こちらは元は飛鳥の山田寺にあったものを
興福寺の僧兵が強奪して((゜д゜;)!)
東金堂に納められていたが、
室町時代の火事で頭部だけが焼け残り、
改めて作った台座に納められていたという。
それが昭和12年に発見されたそう!(´Д`;)
すごい歴史を超えていらっしゃったかと思うと
ありがたみが増してきました( ̄ー ̄)
外へ出ると、お腹をすかせたシカが寄ってきました。
凶暴なため、おしりを追いかけてばかりヽ(;´ω`)ノ
まるで強訴をする僧兵のごとく…。(´д`lll)
食後は剥製かと思うほど動かないー(^^ゞ
現在の興福寺のようにおだやかですな…σ(^_^;)