幕末の志士が眠る聖地 京都・霊明神社
霊山といえば幕末の志士が眠る地。
その他たくさんの志士のお墓がある
京都霊山護国神社は知っていましたが
その奥には足を踏み入れたことがなかったのです。
実はそのお隣にも神社があることを知りました。
京都霊山護国神社の前の道を通り過ぎ
道なりに坂道を登ると見えてくるこの鳥居。
これはくぐってから撮ったものです。
写真でいうと右側に神社があります。
登ってきた方向からだと左側になりますね。
お隣はホテルりょうぜん。
この看板を目印に坂を登ります。
文化6年(1809)村上都愷(くにやす)が
正法寺の塔頭が所有していた山林を
買い受けて神社を創建。
ご祭神は
天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)
熊野三柱大神
(くくりひめのみこと、はやたまおのみこと、こととけおのみこと)
創建者の村上都愷さんは朝廷に仕えていた貴族で
徳川政権下では仏式で葬祭を行なうと
決められていたことに疑問をもったそうです。
宮参りに七五三、結婚式と節目は神式なのに
なぜ最期だけ仏式なのか、と…。
そこでこの地を購入して神式の葬祭を始められた
お墓がある神社として珍しい存在なのです。
ここが神社への入口。
文久2年(1862)京都で亡くなった
長州藩の志士を葬ったことに始まり
各藩の尊王攘夷派の志士を埋葬するように。
久坂玄瑞が先祖の永代供養を申し入れた
という記録もあるそうです。
そして慶応3年(1867)龍馬と慎太郎が
近江屋で刺客に襲われ亡くなると
同志によって運ばれ神葬祭をおこなって埋葬した
という記録が残っているそうです。
坂道が続きちょっとツライのですが
ここまで来ると風が抜けて心地よかった〜。
お参りしながら市街を眺めることもでき
清々しい参拝となりました。
当初、五条御幸町にあったこの神石。
近くに住む人に災いが起きたので
初代宮司がお祓いを行なったことから
こちらに還座されることになったそうです。
ここまではよかったのですが
ここから急に強い雨が降ってきて…><
雨宿りさせていただきつつお話をお聞きしました。
なぜ今は京都霊山護国神社に
志士達のお墓があるのか、ですが…
明治10年(1877)政府によって
墓地と境内地の大半を召し上げられ
政府が管理する招魂社に管理させます。
招魂社というのが現在の京都霊山護国神社。
ということで、現在は龍馬を始め
志士達のお墓は霊明神社にはないのですが
神社の前の階段を西側へと降りていくと
神道墓地として少しばかり残されています。
この道は初めて通ったのですが
そのまま降りていくと二年坂にぶつかります。
八坂の塔も見える絶好の場所ですが
ここを通って葬送されたのか
と思うと感慨深いですね。
入口は門が閉まっていますが
神社で参拝の旨を伝えたら入ってもよい
とのことでしたので、お参りさせていただきました。
17日(日)は幕末受難志士慰霊祭
facebook御朱印オトメ部ページでもお知らせしましたが
今週末の17日(日)慰霊祭がおこなわれます。
申込日は過ぎていますが、若干お席に余裕があるとのことで
幕末の志士達に興味がある方は行かれてみては?
午前中に慰霊祭をおこない昼からはホテルりょうぜんに場を移し
食事と講演会などがおこなわれます。
午前中のみの参加もOKだそうです(午前のみは玉串料5000円)
お問い合わせは上記の奉賛会事務長さままでご連絡ください。
ちなみに昨年の慰霊祭を取材された記事がありましたのでご参考までに。
慰霊祭にて配布される資料と御朱印。
御朱印は奥様に書いていただきました。
雨宿りを理由に1時間以上も滞在してしまい
でも快く迎えてくださり本当に良い時間でした。
御朱印まとめ
★拝受場所/授与所
★「霊明神社」
以上、霊明神社でした。