敵は本能寺にあり! 火の災難に悩まされたお寺
今日は葵祭でしたね〜
ワタクシはプチ安静中なので
お出かけできませんが
去年は「出町ふたば」の辺りで見てたのでした。
けっこう穴場な場所だった気がする(^-^)/
そういえば去年は悪天候で
何年かぶりの順延になって
それで見に行けたのでした。
今年は暑かったんじゃないかな〜(;^_^A
さて、寺町通巡りの続き。
チラ見しかしかことない本能寺へ。
能の字が違うってことについてはのちほど。
変換で出て来ないので
ここでは「本能寺」で書きます。
当初は「本応寺」という名で
応永22年(1415)油小路高辻と五条坊門の間に
日蓮宗の僧・日隆によって創建。
しかし3年後、法華経の解釈をめぐり
月明との対立によって破却されます。
永寿元年(1429)大内裏跡に再建し
さらに永寿5年(1433)六角大宮の西に
土地を譲り受け、本能寺に改めます。
天文5年(1536)延暦寺の僧兵によって
堂宇はことごとく焼失。
その後、天文16〜17年(1537〜38)に
日承上人が本能寺8世となり
現在の旧本能小学校のあたりに
広大な土地を得て大伽藍が創建されました。
しかし天正10年(1582)
あの事件が起こるのです…
本堂は昭和3年(1928)の建立。
天正10年の事件といえば。
本能寺の変ですね!(´Д`;)
これにより、またも堂宇を焼失。
天正19年(1591)秀吉の都市計画で
現在地に移され、天正20年(1592)に
伽藍の落成がおこなわれました。
広大な敷地だったそう。
元治元年(1864)蛤御門の変で焼失。
明治5年(1872)敷地は3000坪に減少
そして昭和になってやっと
現在のように再建されたのでした。
現在のように再建されたのでした。
鶴のもんもん? 初めて見ました。
しかし焼けては再建を繰り返した歴史。
火の被害を受け続けたということで
「ヒ」がふたつ入った能の字を使わず
「ヒ(火)」が「去る」ようにと
現在のつくりに変えたそうです。
厳密にいうと、去るという字でもないし。
現代からすれば、パソコン変換で
出る字にして欲しかったヽ(;´ω`)ノ
結局、能の字を使うしかないし…(^▽^;)
本堂の奥に信長公の廟所がありました。
信長の三男・信孝が
本能寺を父の墓所を定め
建立したものだそうです。
信長の太刀がおさめられているという。
信長ファン必見の場所ですね。
庭にあった加藤清正寄進の臥牛石。
牛に見える??
御朱印いただきました!
初めて妙法の御朱印いただきました。
日蓮宗系(っていっていいのかな?)
だからちょっとドキドキでしたが
やっぱりそこは観光寺(?)なのか
とても丁寧に対応してくださいました。
右下の朱印にひかえめながら
「信長」って入ってます( ´艸`)
さて、次は和泉式部ゆかりで
落語の寺ともいわれる
誓願寺へ行ってみます〜