方広寺と豊国神社
国立博物館の裏にある豊国神社。
「ほうこくさん」でおなじみの
秀吉公をご祭神とした神社です。
大鳥居の奥には、神社には珍しい
豪奢な門がありました。
国宝の唐門は
西本願寺、二条城と並ぶ
三大唐門のひとつだそうです。
この日は結婚式が行なわれていたので
本殿は参拝しませんでした(^^ゞ
そしてお隣の方広寺へ。
東大寺の大仏に変わる大仏を
京都につくろうとしたのが始まり。
当時、奈良の東大寺の大仏は焼失していたそう。
天正16年(1588)建立が始まり、
大仏殿は文禄4年(1595)に完成。
しかし翌年の慶長元年(1596)、
伏見の大地震で大破。
大仏殿は再建されたものの、
完成を待たずして秀吉公は死去。
同年、大仏不在のまま開眼供養されました。
慶長5年(1600)、徳川家康のすすめもあって
豊臣秀頼が再建を開始。
慶長17年(1622)にほぼ完成。
家康が大仏殿の建造をすすめたのは
豊臣家の富をうしなわせるためだったとか…(゜д゜;)
そして問題の鐘楼です。
「国家安康」「君臣豊楽」があり、
これを知った家康は
「家康の2文字が引き裂かれている
豊臣家のみ繁栄を願っている」
と因縁をつけ、大阪夏の陣を起こし、
豊臣家を滅亡に導いたという。
問題の部分はわかりやすく白く囲ってあります。
その後も災難が続き、
寛文2年(1662)地震にて小破。
徳川家によって改鋳され、
変わりに木像の大仏が安置されたが
寛政10年(1798)落雷で焼失。
天保14年(1843)に木像半身の大仏像が祀られたが
昭和48年(1973)火災で焼失。
現在は本堂と大黒天堂、鐘楼が残っているのみ。
鐘楼には天井画が画かれていて
在りし日の豊臣家を思わせますが、
現在は鐘楼くらいしか見所もなく、
「つはものどもがゆめのあと」(場所違いますが…)
といいたくなるような寂しさでした(。>0<。)
秀吉亡きあとは、方広寺近くの
阿弥陀ヶ峰に埋葬され、
その麓に鎮守社として豊国神社が建てられました。
秀吉の遺言としては、
東大寺の大仏に倣い、
自身を八幡として方広寺に祀るように、とのことでしたが
結果として方広寺とは別の存在となり、
神号も大明神となりました。
秀吉の遺言以上?に手厚く祀られましたようですが
彼の願いとしては、
大仏になって皆に手を合わせてもらいたかったのかしら?
少し小高いところにある豊国神社の鳥居。
ここからまっすぐ西へ伸びる道路は
「正面通り」といわれています。
正面って、何の正面?って思ったら
この大仏のことだったらしいです。
なんだか、豊臣家の大仏への
コダワリを強く感じますネヽ(;´ω`)ノ
しかし、それが仇となって?家康に
仕掛けられ、それが一家滅亡になったのですから
コダワリすぎるのも考えもの?だったり。
歴史から学ぶことは多いですね:*:・( ̄∀ ̄)・:*: