大徳寺〜今宮神社〜船岡山
鎌倉時代末期の正和4年(1315)、
大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が
この地に小庵を開創したのが始まり。
応仁の乱で荒廃したが、
一休宗純が堺の豪商の協力を得て再興。
あの「一休さん」ですねー( ̄▽+ ̄*)!
一休宗純といえば、
であることが公認されていたらしい。
自由奔放で奇行が多かったとか( ̄ー ̄;
でも天皇に親しく接せられ、
民衆からも慕われていたという。
東山文化を担う人びとが
一休に参禅してからは
茶の湯の世界とも縁が深くなり
千利休などとの深い関係があります。
享禄2年(1529)にまず下層のみが竣工し、
上層を完成させて「金毛閣」と名づけられた。
利休は上層に自身の木像を安置。
下をくぐる者が利休の下を通ることになり
これが豊臣秀吉の怒りを買い、
利休に切腹を命じたと言われている
有名な話のあの門ですね!
仏殿は寛文5年(1665)に創建。
仏殿前にある大きな木が印象的!
国宝の方丈に入ってみましたが
撮影禁止ということで。
床を踏みしめるときゅっきゅと鳴く
うぐいす張りになってましたo(^▽^)o
広大な大徳寺の境内には
20以上の塔頭寺院があります。
ふらふら散歩していると
見事な紅葉の寺院が!
でもこちらは「拝観謝絶」
と書いてありました…(;^_^A
たぶん、龍翔寺と思われます。
看板ネコを横目に今宮神社へ…(^^ゞ
平安遷都以前からこの地には
疫神を祀る社があったそう。
長保3年(1001)、現在の場所に
神殿が造営された。
明治29年に本殿は焼失したが
明治35年に再建し、
西陣を始め多くの人の崇敬を集めている。
こちらが本殿。
西陣の八百屋に生まれたお玉が
3代将軍家光の側室となり、
5代将軍綱吉の生母・桂昌院
として従一位となったことから
「玉の輿」という言葉が生まれたとか!
桂昌院は京都の寺社の復興に力を入れ、
ここ今宮神社も社殿を修復し、
四基の鉾を寄進したそう。
玉の輿を狙って(?)祈願してきましたー(*^ー^)ノ
境内の紅葉もキレイ♪
東門を出ると名物「あぶり餅」の
「かざりや」と「一和」が向かい合っています。
この長蛇の列!!
なんと創業1000年!という一和で休憩。
白味噌を使ったタレが
少し甘ったるく感じましたが
歩き疲れた時にはちょうどいいかも♪
南へ下って船岡山公園へ。
ここには建勲神社があります。
一方では、都を代表する葬送地。
まだ土葬や火葬のない時代、
死体が転がされていたという地…(((゜д゜;)))
応仁の乱の際には
船岡山に山城が建設されていた。
織田信長が亡くなってから、
正親町天皇の勅願により、
豊臣秀吉によって信長の廟を建設する。
明治2年(1869)、明治天皇の宣下により
改めて信長を祭る神社をつくることになり
明治8年(1875)建勲神社が創設された。
いろいろな歴史を刻んできているのですね…ヽ(゚◇゚ )ノ
奥が本殿。
ちょこちょこと紅葉していてキレイなのですが
人が少なくてなんだが物悲しい感じなのは
昔の歴史が物語っているのかな…(><;)?
わかりにくいですが
本殿からの眺めはいいです。
ただ、木が生い茂っているので
開けてはいませんが…(・_・;)
でも、この木が生い茂っているのが
神秘的な雰囲気を醸し出して
イイのかもしれません。
なんとなく背筋が
ゾクッとするものがありましたが…(((( ;°Д°))))